野の花のように

剣豪の里・柳生の郷士の家に生れた父が、大阪に出て家具の卸売業を始めたのが、戦後間もない昭和25年。その頃にいた住吉区から、ここ狭山の地に移ってすでに35年以上の歳月が流れました。
平成3年頃からは、家具と並行してリフォームの仕事を始め、その蓄積をもとに、平成16年、リフォーム専門の会社として、再出発することができました。
ひところはヤンチャで手のつけられなかった自分がいま、かけがえのない家族を得、住み慣れた地で仕事を続けていられるのは、なんだか夢のような気がします。
「マルゼンの歩み」と言っても、人様に自慢できるような華々しい歴史があるわけではありません。むしろ、一人の男の、汗をかき恥をかいてきた人生があるのみです。しかし、私はそのことを誇りに思いこそすれ、卑下したことはありません。自分の弱さ、愚かさにとことん向き合ったからこそ、私は人の情や、人生にとって何が大切かを学べたような気がしているからです。
人生哲学というようなおおげさなものではありません。狭山の町の片隅で生きてきた、ひとりのオヤジの独り言と思って、聞いて下さい。

 

マルゼンの歩み

野の花のように

 


 

 

"やんちゃくれ"の苦しみ

少年の頃の私はとにかくヤンチャで、いわゆるガキ大将でした。気に入らないとすぐに叩くので、仲間うちでは恐れられていましたが、弱いものいじめや曲がったことは嫌いでした。言ってみれば"由緒正しきガキ大将"とでもいうべきものだったと思います。
そんな私が、志望する高校に行けなかったことから、ふとグレてしまったのです。さあ、それからは奈落の底へ真っ逆様です。学校に行かずに毎日喫茶店にたむろする。盛り場を徘徊する。しまいには商売物の家具をくすねて二束三文で売り払い、そのお金で仲間におごったりしていたのですから酷いものです。
人間って、そういう時の心の中はどうなっていると思います?胸の中が灼けつくようですよ。瞬間瞬間の楽しさはあります。けれど刹那的な楽しさを盗む生活はね、つもり積もると地獄なんです。
そんな私でも、昔泣かせてばかりだった友達が「いい加減にせえ」と叱ってくれたり、学校の先生が「キミを信じている」と手紙をくれたりしました。有難いと思いつつも素直になれない。あの時、私は自分の弱さをイヤと言うほど思い知らされたのです。

 


 

自分の弱さを知る

そんな私が、蟻地獄のような泥沼からようやく抜け出せたのは、はたちも過ぎた頃でした。そのきっかけは、決して忘れることのできないものです。私は、自分の身勝手さが原因である人を深く傷つけてしまいました。なんてひどい男なんや、と私は自分で自分をののしりました。その時です、「もうやめよう」と思ったのは。
以来私はガラッと変わりました。人が変わったように真面目になったのです。人を陥れたり、騙すようなことは一切しなくなりました。そして、「自分はいつでも転落していける弱い人間だ」ということを常に自覚するようになったのです。
その後、私は今の家内と縁あって結ばれ、二人の男の子を授かりました。家内は私の口から言うのもなんですが、ものすごく純粋な女性で、私の言うことを何でも信じます。だから私はいい加減なことは言えません。夫婦喧嘩をすることもありますが、子どもたちの小さい時から、ケンカして仲直りするところまで、ありのままを見せてきました。
若いときの失敗の取り返しはつきませんが、帳消しにしたいとは思いません。その恥ずかしい経験のおかげで、今の私があるのですから。

 

自分の弱さを知る

自分の弱さを知る

 


 

分相応に生きよう

分相応に生きよう

 

分相応に生きよう

リフォーム会社の立ち上げと同時に、長男・真哉、次男・達哉、松下くんに栢木くんというメンバーが加わり、マルゼンは若いエネルギーがあふれる会社になりました。彼らに私が願うのは、彼らなりの夢を実現してほしいということです。
それは決して売り上げを伸ばすとか、会社を大きくするとかいうことではありません。もちろん「それがやりたいんや」と言うのなら大賛成ですが、自分の器にあった幸せは何かをよく考えて、誰が何と言おうと、それに向かって進んで行ってほしいのです。
お金や出世は結果であって、プロセスではありません。そのプロセスで、どれだけの人に喜んでもらえたか、逆に言えば卑怯な真似をしなかったかが、男の、人間の本当の値打ちだと思うのです。
ここまで読んでくださった皆さんは、もうよくおわかりのように、私はそのことを偉そうに言える人間ではありません。私自身、日々それを自分に言い聞かせている人間です。

 

最後に、次男・達哉が、東京にいて、就職について悩んでいた時に私が書き送った手紙を引用させていただいて、「社長の思い」のまとめとさせていただきます。

手紙

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